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荒木一郎


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☆評価☆名前/タイトル歌/曲年代
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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荒木一郎Midnight Blues1981年
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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荒木一郎果てしなき闇の彼方に1981年


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荒木一郎
『二十四の瞳』。16歳のとき、NHK総合テレビジョン|NHK初の本格的連続ドラマ『バス通り裏』二年目の1960年から出演。その後も20歳まで他のNHKドラマにレギュラー出演した。高校時代はモダン・ジャズに傾倒し、俳優をやりながら17歳から20までバンド (音楽)|バンドのドラマーをした。バンド時代に人の曲が覚えられず、「自分で作った方が早い」と曲作りを始める。同級生に佐藤信 (演出家)|佐藤信がいた。1962年、切手コレクションで第18回全日本切手展グランプリ受賞。1963年、青山学院高中部|青山学院高等部卒業。在学中の成績はほとんど「1」ばかりで、「1マイナス」もあったので本来卒業できないところだったが、教師の計らいで論文を提出して卒業を認定された。

19歳から短期間文学座に在籍。また東映制作のテレビドラマ『特別機動捜査隊』(テレビ朝日|NET)や、『鉄道公安36号』(NET)などに出演。『バス通り裏』の人気で、1964年日活から誘われ『風と樹と空と#映画版|風と樹と空と』で映画初出演。東映から三本の本数契約を結び(歌手転向のため一本のみ)、1966年、東映の中島貞夫監督に誘われて主演した『893愚連隊』で映画評論初の新人男優賞を受賞した。同年NHKドラマ『柿若葉』で共演した人気女優・榊ひろみと結婚(長男誕生後離婚)。

一方で音楽の才能も注目され1966年、荒木の語りと自作曲で構成する東海ラジオ放送|東海ラジオの番組『星に唄おう』のDJを務め、そのテーマ曲『空に星があるように』で、ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業から1966年に歌手デビュー。60万枚のヒットとなり、同年の第8回日本レコード大賞新人賞を受賞。ファーストアルバム『ある若者の歌』も芸術祭文部大臣奨励賞受賞。1967年、『いとしのマックス 〜マックス・ア・ゴー・ゴー〜』で第18回NHK紅白歌合戦出場。この時期には、一人グループ・サウンズ|GS的な評価をされた。突如人気歌手となったことで俳優業はストップ。当時芸能事務所|個人事務所を持つ者は少なかったが、1966年にファンクラブを発展させて自身が社長を務める「現代企画」を設立。日本で出始めの音楽出版社も併設した。当時の地方興行はヤクザが仕切っていたため、地方興行でよく喧嘩し、荒木は喧嘩早いという報道をされた。歌手活動が忙しかったが、その合間でいいから映画に出演してくれというオファーが殺到したため、大島渚監督の『日本春歌考』(1967年、松竹)など数本に出演した。大島に興味はなかったが『日本春歌考』の大学生の田島敏男が書いていたプロット (物語)|シノプシスが面白くて出演した。大島は台本なしで撮ろうとし、田島のシノプシスとは全然違う映画にしたという。

羽仁進監督『愛奴』ロケーション撮影|ロケ中の1969年2月7日、わいせつ#犯罪類|型強制猥褻致傷容疑で町田警察署に逮捕され、23日間に渡り拘留された。同年2月28日、処分保留で釈放の後、4月2日起訴#不起訴処分|不起訴となる。この事件はマスメディアに大きく報道され、荒木に激しいバッシングを浴びせ、荒木を徹底的にシャットアウトした。当時、所属事務所のビクターから「一応辞表を出せ。どうせ不起訴になるだろうから、辞表は不受理にする」という話を持ちかけられ、実際に辞表を出すとあっさり受理されて3年間の謹慎となった。そんな状況下でも8トラック|8トラックカートリッジでの作品発表など地道な活動を続ける。

救いの手を差し伸べたのが東映で、1970年、渡瀬恒彦のデビュー作『殺し屋人別帳』(石井輝男監督)に出演オファーを受け映画界にカムバック。同作に干される前なら全く有り得ない10万円の低ギャランティ|ギャラで受けた。渡瀬は最初「荒木さん」と呼んでいたが、売れると「荒木」と呼び捨てするようになったという。ここから天尾完次、鈴木則文、中島貞夫らと東映ポルノの中核を担う。出演、音楽の他、プロダクションを経営していたため、東映ポルノの女優のマネージメントを一手に担当。池玲子や杉本美樹は、最初別の事務所に所属していたが東映が引き抜き、荒木の事務所に預けた。自身で「ポルノの裏の帝王みたいになった」、「日活ロマンポルノは、東映ポルノのまねをした」などと述べている。しかし所属タレントだった芹明香が薬物依存症|麻薬中毒になるなど、無茶苦茶になり事務所は人に渡して辞めた。岡田茂 (東映)|岡田茂東映社長から「『荒木一郎の暴力とセックス』という題名で映画を作らないか」と言われたことがあるという。1970年小川益生監督の『人間の牙』(未公開)撮影で知り合った酒井静子と後に再婚し4人の子供に恵まれた。

1970年、ビクターが口火を切り、同年10月、吉永小百合への楽曲提供『小さな命』で本格復帰。1971年5月にビクターからアルバム『荒木一郎の世界』をリリースした。同年の『ぼくは君といっしょにロックランドにいるのだ』はアレン・ギンズバーグの詩にJ.A.シーザーが曲をつけた作品で高い評価を受けた。同曲はヒッピー、学生運動の時代の雰囲気に合っていた。1972年の名作ドラマ『木枯し紋次郎#木枯し紋次郎(1972年版)|木枯し紋次郎』では中村敦夫、戸浦六宏と共演し、稲荷山の兄弟役で好演した。同年、村川透監督のデビュー作『白い指の戯れ』の出演オファーを受ける。日活が「日活ニューアクション」を模索する際の参考として本作を社内試写した。荒木が『白い指の戯れ』を日活で撮ったとき、村川監督からその話を聞かされたという。1973年の中島貞夫監督『鉄砲玉の美学』(日本アート・シアター・ギルド|ATG)は、MCAレコード#日本での事業|MCAレコードから頭脳警察のプロデュースを頼まれた荒木が、頭脳警察を売り出そうと同映画の音楽に使用したもので、頭脳警察は映画とは関係ないという。30歳頃から3年半にわたって桃井かおりのマネージャー#芸能界のマネージャー|マネージャーを務める。

1977年、当時30歳のクラブ歌手の女性から「レッスン中に性的ないたずらを受けた」と東京地裁に提訴され、130万円の損害賠償を請求される。荒木は当初、非を認めて謝罪していたが、のちにこの女性と婚約者を警視庁北沢警察署に告訴し、「二人が暴力行為容疑で逮捕される事態」に発展した、そのような事実は存在しない。

以後、沢田研二ら他アーティストへの歌詞、楽曲提供やプロデュース、映画音楽担当、映像作品の音楽制作なども含め、幅広い活動を行っている。

1980年代後半からは活動を大幅に減らしているが、2001年には他アーティストとの共演によるアルバム『BEST FRIEND & BEST COLLECTION』を制作、2002年には青山劇場で演奏会|ライブを行うなど、近年再び本格的な活動を始めている。2010年には、北沢タウンホールにて、8年ぶりとなるライブ『Ichiro Araki 3 Days』を行い、2011年には同ライブのDVDBOXをUP LINKから発売。

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